私の仕事場にはアシナガバチの巣があった。小さな倉庫の入り口である。自転車やバイクの車庫にするつもりで設置した倉庫だが、シャッターはいつも全開のままで壁際だけにいくつかのものが置いてある。ほとんど物の出し入れはない。その倉庫の間口の上に屋根が少しだけ延ばしてあって、その軒下にアシナガバチが巣を作った。
最初はひとつだったが、その巣を作り始めてすぐに女王はどこかで事故にでも遭ったのか姿を消した。そしてそのとなりに別のハチがもうひとつ巣を作り始めた。こちらの巣は比較的順調で、そのうちに働きバチが生まれて仕事をし始め、巣は徐々に拡大していった。
私の職場にはのんきな者が多く、順調に巣が拡張され始めてから気が付いたのがほとんどだった。
「けっこうおっきいハチの巣があります!」
「知ってるよ。倉庫だろ?」
動物園と言うところには来園者が数多くやってくる。ミツバチくらいならよほど必ず接近するところでなければ「ミツバチの巣があります」と表示して近付かないように警告する程度に止める。しかしアシナガバチの巣となると撤去になる。スズメバチなら速攻で撤去される。「安全のため」仕方ないとされる。
しかし私の仕事場である動物病院は非公開エリアで、そんな傍若無人にハチの巣あたりに接近する人はいない。出入りの業者も近付くところではなく、アシナガバチの巣があっても特に問題はなかった。
話は変わって、最近は動物の保護に関してカネの問題を整理したがる人が増えてきた。以前から保護とカネの問題はなかったわけではない。そして、鳥獣保護法に基づく都道府県単位の「傷病鳥獣保護」においてなし崩しにされてきたあの問題を白日の下にさらす人が増えてきたのである。あの問題とはすなわち、取捨選択の基準化である。
鳥獣保護法は狩猟法と対をなしたような法律で、野の自然を愛そう、ケガをした動物を助けようというやや道徳的な目的を持っている(と私は感じている)。「自然を大切に」の入口は、野山の草木を折らないことと動物を殺さないこと、破壊や傷病を見つけたら助けること、である。この法律に基づき各都道府県は保護センターのような施設を大小様々ながら持っている。ここには昔からカネの問題がくすぶっていた。
保険もない動物の治療には実費で結構な金がかかる。保護は治療だけでなく維持飼育も必要である。餌やら入れ物やら、ケガなどしているとそのために余計な道具なども必要になる。いつも備えていてもいずれ壊れるため維持費がかかる。動物のこどもにはミルクやら小鳥の餌やり器やら成体とは違う餌も必要になる。チリツモで案外合計費用はかかっているのである。
しかし都道府県はそこに大きなカネをかけられるとは思っていない。昔から予算規模はかなり小さい。たとえば神奈川県では丹沢方面で保護があり環境も良いため厚木市の山奥、七沢に「自然環境保全センター」を持っている。しかし都市部からそこまでケガや病気の生き物を運ぶのはたいへん。人口の多い横浜市では動物園が複数あることもあり、神奈川県から委託される形で保護を代行している。動物園にはこれらの保護動物を収容する施設が用意されている。
用意されていると言っても神奈川県が建築費を負担したわけではない。動物園というところでは、傷病鳥獣が来ることによるメリットも多少ある。飼育担当者は様々な種類の生き物の飼育を経験することができるし、獣医師も多様なパターンの治療を経験する。on the job トレーニングのいい例である。市内での保護に対応することでもあり、動物園のひとつの仕事と考えることもできるので、実際と比較すると非常に少ない県からの委託費で対応しているのである。すなわち、かなり市が自腹を切っている。とはいえ横浜市の予算案は議会を通っているので、別に法外なことをしているわけではない。
市街の動物病院に保護動物が持ち込まれることもある。獣医師法で特別な理由のない限り診療は拒否できないとあり、この摘要はやはり獣医師法に明記された家畜および小鳥等に限られるのかもしれないが、結局対応可能なら野生動物の治療も簡単には拒否できない。そうすると、野鳥の治療が可能な勉強家の獣医師ほどそういう場面で自腹を切らざるを得ないという事態が生じるのである。カンパでお金を集めてくれる持ち込み者もいれば、スポンサーを付ける獣医師もあるのだが、ごく少数である。
けっこう人々の使命感と善意で支えられてきた保護事業だが、ここに来てカネの問題に声高になる人が現れた。というか、もちろんスポンサーを付けるような獣医師は以前から県に対して予算組みを実際に近付けて何とかしろというクレームは付けてきた。しかし最近の意見は「金額にあわせるために動物の数を効率的に調節しよう」という声である。すなわち、基準を設けて逸脱する動物は殺そうというのである。
私はどちらかというとこの商売を「動物をいかに生かすか」という工夫をしようと思って選んだ。そういう仕事をしたいと思っていた。しかし近年、殺す仕事をどんどん増やそうとする合理主義者がガンガン台頭してきた感を否めない。外来種問題では正義の名の下に大量殺戮も是とする声が大きい。
自然に立ち向かうことは難しい。自然を守るために施す術だと言っても、人がすることは「技術」である。技術は科学を元に人間がなし得る行為を指すが、技術は科学そのものではない。科学とは自然である。すなわち、科学を自分のものにしたと錯覚しても実際は技術をこねているだけで、自然には所詮太刀打ちできない。たとえ外来種であっても、彼らは野生生物である。自然の力には完全に抵抗できないのである。それをわかった上でどうするか論じなくてはならないのだが、合理主義者たちが合理主義者である以上、そんなファジーな話を理解するのは困難で、とりあえず一網打尽を目指す。そんな人たちの声が大きくなっている;。この業界でも新自由主義の台頭である。
この新自由主義者たちは、殺す選択を「トリアージ」と呼び、殺すことを「安楽死」と呼ぶ。トリアージとはそもそも効率的に生かす選択(よりたくさんの命を救うために重症を前に軽症を後に整理する)のことであり、どれを先に殺すかという選択でこの言葉を使うのは誤っている。「逆だから同じこと」ではない。トリアージという言葉にはもっと命を重く捉えた哲学が含まれているのである。死の上に安楽を付けた言葉は、どうしても死を選ばざるを得ない状況に追い込まれた者に苦痛を与えず死を迎えさせるという最終手段の思いが込められている。「安楽死」を連発するのは核ミサイルを撃ち合っている状況のようなものである。その哲学を全く無視して、「安直死」にしてしまっている。どれにも命の重みなど感じ得ない、カネを中心とした合理主義だけがのさばっている。
「ない袖は振れないんだ!」と強気に、そして自分は英雄の選択をしているのだと涙まで見せたりする。どこかで見たな、これ……コイズミさんとか、ハシモトさんとか、新自由主義の旗艦はおよそそんなパフォーマンスである。しかし、国や大阪府の借金しかり、そんなにふくれあがるまで借金ができている、すなわち、袖はなくなっちゃいないのである。本来だったらその仮の袖はボロボロになる前にある程度でしっかり修復しなければならないのだが、やっちゃいかんことに使い続けて借り物が増えていく。傷病動物の保護なんて、最近では車も増えてみんな車で持ってくるし、情報が増えて持っていく先をすぐに見つけるし、確かに増えてきているが行政の対応はそれにあわせて予算規模を大きくしていなくてはおかしい。逆に、削れるところだって増えているはずである。企業の工場や本社なんか誘致するのにカネを使っている場合ではないのである。
そんな予算の矛盾には目を向けずに、これまでのいろいろな人の苦労を「ぬるま湯」呼ばわりして整頓ばかりしようとする。アメリカというかフリーメイソンばりのありがた迷惑、黒船以来日本は結局アメリカの植民地である。合理主義に染まって独自性を失うことよりも、日本の歴史と価値観に基づいた判断を尊重していくべきではないかと思うのであるが、果たしてこの機に便乗して保護事業を縮小しようと目論んでいる神奈川県は実質どのように変わっていくのだろうか。
そして私は古い価値観ばかりを振り回す保守派、抵抗勢力か?私の普段の発言を見ればどうなのかわかると思う。
それで私の仕事場のアシナガバチの巣は、私が休みの日に誰かが取ってしまった。御丁寧にとなりのカラの小さな巣まで取ってあった。動物園という、自然とヒトとのことを考えさせられる場所でありながら、ハチの巣と見れば状況も鑑みずにとにかく壊す。新自由主義者の合理主義なんてこんなものである。イスラム教徒を一掃して全世界の価値観まで統一しようとするグローバリゼイションをここにも感じる。そして、古くからつづく生き物のバランスまで壊していく。人間はもはや「野生動物の一種ヒト」ではない。しかし自然の中で生きていかなくてはならない。バランスを見失ってはいけないのである。
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