2015年9月24日 (木)

ブリの氾濫

 「同窓会で30年ぶりに会った」とか「2日ぶりのまともな食事」とか、期間が空いたことを表現するのに「~ぶり」という言葉を使う。それが、最近妙な使われ方をしているのを会話でぼちぼち聞く。
 通常、「ぶり」の前には期間を示す言葉が入る。X時間とかX日とかX箇月とかX年とか。大概は長い期間が空いたことを表現する。
 ところが、誰が使い始めたのか、期間でなくある時点を表す言葉につなげてきた。「5月5日ぶり」「卒業式ぶり」「新宿で偶然会ったときぶり」など。
 はっきり言えるのは、「以来」を「ぶり」に置き換えてしまっているということである。日本人が慣れない英語を使うときにbyとuntilとかbetween とamong とかを使い間違えてしまうのと似ているのかもしれない。
 で、先日ラジオを聞いていたら、ナビゲータの平井理央さんがゲストとの最初の会話で「いつから会ってない?」「あの金メダル以来?」(ゲストはメダリスト)「ってことはいつだろう?」「金メダルは2010年だから……」「そうだよ、多分。2010年ぶり!」
 アナウンサーやっちまった。2千年ぶりってあんた何千歳だよ!まあそういうことになるだろう。

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2013年4月16日 (火)

知らないとは何か

 最近は専門家がなめられていると感じる。
 専門家はまず専門についてかなりのことを知っている。知っているのみならず様々な考え方や工夫ができる。仕事としての専門家ならお金をもらって相応の専門性でそれに応える。専門家は専門としていることについて頼られている。
 はたして、専門家には専門しかないのだろうか?
 人は何かを掘り下げていくと、そのひとつのことだけではいずれ収拾がつかなくなってくる。専門をいじってさえいれば済むということは無く、その専門の深みのために様々なそれ以外のことと付き合わざるを得なくなる。象牙の塔に籠っていられるのは、専門性を深めずどこかのぬるま湯に浸かりっぱなしという事でもある。
 人は学べば学ぶほど、知りたいと思っていないことも併せて知ることとなる。専門があったとしても、学べば教養全体が深まり、人としての厚みが増す。実るほど頭を垂れる稲穂かな、とはその点をよく表したと言える。
 最近、「ジェネラリスト」なる言葉を気に入ってしまった人が少なくない。何をもって幅広いとしたのか、どんな幅広さに感心したのか定かではないが、大半はどうも勘違いである。なぜなら、ジェネラリストを説明させると「いろいろな経験をしていろいろな仕事ができる」などと言ってしまうからである。昔から日本ではそういう浅い幅の広さの持ち方を「つまみ食い」「門前の小僧、習わぬ経を読む」と表現してきた。自称「ジェネラリスト」のしたり顔を見るにつけ、深みのない人間はダメなのだなと実感が深まる。そして彼らの発言には、結局専門を持つ人間への嫉妬が必ず現れる。
 ジェネラリストは追及して作られるものではない。本来、専門を深めていく中で注目されるあり方なのであって、広く浅いのは副産物で十分なのである。どんな仕事にも専門性があり、長年続けていれば何らかの深みを得ることができる。自分が深めてよく知ることを充実させたら、他の人にもそういった深みがあることに気づく。自らに専門があるように、他の人にも異なった専門がある。自分が全知全能なのではなく、自分があまりよく知らないこともあると理解し、わからないことはその筋の専門家に任せる。すなわち「無知の知」である。
 「無知の無知」を絵に描いたような浅はかな門前の小僧たちが偉そうにしている研修を聞いたりすると、鼻で笑うのを我慢しなくてはならないのがつらい。

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