2015年3月19日 (木)

物事の単純化は後から影響する

 サッカーの本田圭佑選手はプレーで自分を前面に出す事で知られている。もちろんチームプレーを考えて献身的な動きもしているが、特徴的であるのは日本代表の試合の時にPKの場面で見るボール保持。「自分が蹴る」と態度で猛アピールする。周囲の選手も「こうなったら止められない」という様子で任せる。
 最近の日本で見るのは「頑張っているんだからやらせてみようよ」という風潮である。本田圭佑選手は特に悪いことをしているわけではないが、同様の任せ方を他でも放っておくと後で痛い目に遭う。
 特徴的なのは今の総理大臣である。嘘をついたりデマで対抗勢力を攻撃したりする幼稚な政治家だが、未だに「とてもやる気があって積極的だからやらせてみよう」が続いている。もはや他の国からの信用は最悪である。
 さらにまずいのは、このような「実力派」を敵に回さないように周囲が放置したり持ち上げたりして、注意する者がいなくなることである。お山の大将は上から組織論を振りかざしヒエラルキーを極度に強調する。結果、周りは揉み手すり手に太鼓持ちばかりとなって、思いつきやわがまま言い放題となる。虎の威を借る狐も現れる。
 嵐の過ぎるのを待っていれば吹き飛ばされないかもしれないが、嵐の後には大きな爪痕が残る。周囲の多くが違和感を感じているのに事を荒立てないように逃げるというのは、結局のところ社会に対して無責任ではないのだろうか?そしてひとりとか少数の闘いを見過ごすのもまた、仲間を見捨てたり犠牲にしたりしているのかもしれない。
 多少でも難しい事は避けて単純な発想に終始し、そうして大局を見ているつもりがいつしか戦争に突入していったのが100年かそこら前の話である。喉元すぎれば熱さ忘れるということわざを無駄にしたくないものである。

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2014年6月 6日 (金)

増税と困った郵便サービス

 先日とある人から「レターパックプラス」が届いた。レターパックといえば、半ば詰め放題で料金均一、ワンコインで国内はどこへでも送れるというのが基本コンセプトで始まったサービス。しかし届いたレターパックには10円不足で受け取るなら郵便局に10円払いに来いとの指示が。
 そもそもワンコインが売りだったのに、増税であっさり10円値上げしてしまったのはある意味滑稽である。もう値段の価値観を半減させてしまった。コンセプトを重視していない経営姿勢が露骨に出てしまったと言える。
 はがきや封筒の郵便料金もちまちま値上がりしたのは消費税が最初に導入されたときに不評だった。41円とか62円とかまた中途半端に1の位の金額が増えて、1円2円5円の切手を貼り足したり、買うときの計算がやや面倒だったり。それで消費税が5%に上がったときは値上げを含めておよそ1の位を0円の料金に改定した。
 今回も郵便はICカードみたいに料金の支払いが便利になったわけでもないのに1の位の金額をいじってきた。私は不定形郵便を出そうと思って重さを量ったら110gくらいだった。料金表を見ると、他の重さの段階では1の位が0が多いのだが、ちょうど150g以内のところだけ1の位が0ではない205円。しかも100g以内と比べてここだけ値段の開きが大きい。なぜ200円にできなかったのか意味不明である。
 それで200円までは手持ちがすぐ出てきたが、1の位の切手はもはや家を漁っても出てこない。それで通り道にあったスーパーやコンビニの切手を売っているところによってみたが、10円未満の切手は置いていない。つまり、日本郵便は切手の販売で肝心な変更もせずに値段だけ半端に変えてしまったということである。
 今日も郵便物を出せなかった。適当な箱に入れて宅配便に頼んだら早かったかも(中身は信書ではないので)。返す返すも残念な民営化後の郵便だった。

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2014年4月 3日 (木)

茅ヶ崎はカオスだった

 茅ヶ崎に2年ぶりくらいで用事があった。
 春休みなので平日ながら市民文化会館でヤマハ音楽教室の発表会。もちろん平日の通勤ラッシュがあって雨で、3歳児もいることを考えると車で行くのが無難。
 茅ヶ崎駅前は一日中渋滞している感じ。国1の交通量が終日多いのに立体交差もなく普通に茅ヶ崎駅前の道路と交差している。バイパスと手前で別れるけどそんなに解消されている感じがない。
 茅ヶ崎市役所はずいぶん長いこと工事中。どんな立派なのができるのか楽しみである。文化会館の駐車場の収容能力は60台で、道の反対側に市営の立駐がある。これが1台分の区画をギリギリまで小さくとって効率的に駐車台数を多くしている。線を引いたのがかなり昔で当時は平均的に車が小さかったのかもしれない。金沢自然公園と同様。
 文化会館や市役所に集まる人の数は半端でなく、市の駐車場だけでは不足しているようである。
 市役所の近くにはイオンがふたつ。今日は昼飯を食いたくてイオン茅ヶ崎店の方に入った。店舗の4-5階が駐車場だが、店舗の建物と並んで立駐が建っていて階層は微妙にずれているが店舗に連絡通路がある。マイカルが得意だった建て方である。現在はイオンの駐車場という扱いでありながら運営はTimes24である。店舗にはシネコンがあり、マイカルだったことをうかがわせる。
 飯を食いたくて入ったのだが、フードコートの区画の店は工事用シートがかけられ、まっさらな空間になっている。銀だことイタリアンの簡素な店が両隣にあり、フードコートには「イオンで買った物以外の持ち込み禁止」とテーブルにわんさか貼られたパウチの注意書きが目立つ。
 トイレなど全体的に設備が古く、この店は先が長くないんじゃないかと思わせるが、2-3階では新しく店舗が開店するべく準備が進んでいたりする。どうやら映画館や駐車場の利用率で店が保っている感じである。
 近くの茅ヶ崎中央店にはマクドナルドが入っているらしい。公共施設に駐車場が不足しているため有料の駐車場をたくさん持っていて買い物もしてもらえる店舗は近くにふたつあっても成り立つのである。
 でも昼飯は中食売り場で買った弁当類になった。買い物しないと駐車場が最初の60分400円。外食したかったので次はきっとイトーヨーカドーを見に行く。

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2013年12月19日 (木)

犬が西向きゃ尾は東

 支持率が下がったところで経済の「実績」をアピールする。ある意味実直で堅実ないつもどおりの作戦にはしつこさというかネチネチした感触を味合わされる。
 円安になって輸出が改善した町工場では好景気を実感しているらしい。発泡酒がビールに代わった?次の円高に向けて貯金しておいたほうがいいのではないか?
 日本は資源に乏しいので、材料は輸入するし加工したものを輸出して商売する。円安とか円高とか大きく振れなければ両方とも投資家みたいに為替をそんなに意識しないで普通に商売できる。ところがパチプロのように投資ギャンブルで商売するやつらが増えてきたせいで為替相場を先読みしないと商売に差し障るようになってきた。
 結果、円高のときに儲かる会社と円安のときに儲かる会社にシーソーのような関係ができてしまった。しばらく円高が続いていたので、輸入に影響される会社はその間ラクだった。それが円安に振れて今は苦労している。しかし少し前までラクだったので大きな声で文句を言いにくい。それに対して、輸出で商売している会社は「ラクになったー!ありがとう円安!ありがとう○○ノミクス!」と大きな声を出しやすい。
 つまり、円高が続いていたので円安に転換させることは上辺の成果をアピールしやすいというプロパガンダの作戦でもあったのである。しかし材料輸入で成り立っている日本の経済がそれで好転するはずがない。資源の少ない日本は材料が入ってこないと何もできない。輸出できるかどうかはカネの問題、輸入できるかどうかは食うものがあるかどうかの問題だ。つまり「好景気」と言っているのは輸出を商売にしている一部の人だけで、国内消費は全体的に不景気なのである。
 いずれにしても現政権の経済政策はどれをとっても一握りの資産家を儲けさせて多数の庶民に損をさせる、経済格差拡大の政策ばかりである。国民の多数がそんな詐欺師の講演会みたいな国会答弁に騙されているようでは、いつまでたっても振り込め詐欺が減らないのも当たり前である。
 今年を象徴する言葉がアベノミクスでもアンダーコントロールでも、みんな人を騙す言葉であることに変わりはない。
 そして政府が本来すべきことは何か。それは国内産業の保護である。輸入して国内で生産する産業も、加工して輸出する産業も、両方ないと成り立たないのは当たり前である。すなわち、為替相場の動きに応じて弱くなったほうに何らかの手助けをするのが政府として正しい姿である。投資家と同じようなことをして円高円安のどちらかに振ればいいというものではないはずである。TPP?政府が何をしているか、客観的に見て確かな判断をしたいものである。

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2013年7月19日 (金)

上を向いて歩こう

 重力を利用して生きているので仕方ないといえば仕方ないのだけれど。
 武田鉄矢さんは「私は大地に影落とし歩く 人なんだ」と歌い、人として生まれた以上、地べた暮らしが人にふさわしいと自覚することを説いた。地球上で重力に抗って水中や空中を生活場所にした生き物よりもヒトが繁栄した。ヒトの生活圏は基本地べたである。
 そして、ヒトは時々空や海に憧れを抱き、乗り物を使って進出していったが、その割には地べたが大好きである。なぜそう思うかと言えば、掃除の方法が地べたに集中しているからである。ほうきにちりとり、電気掃除機、デッキブラシ、モップ、道路清掃車、とにかく下面を掃除する道具が充実している。
 「はたき」だってあるし、窓拭き道具だってある。全く地べたを掃除するものばかりというわけではない。しかしその充実度に大きな差がある。
 重力があるから、ゴミは最終的に下に落ちる。落ちたごみを掃除していれば最終的にきれいになるはず。理屈としてはその傾向におかしなところはない。しかし、である。
 建物に入ったとき、駅の構内を歩いているとき、食堂で頼んだ定食が出てくるのを待っているとき、あえてちょっと上に視線を移してみよう。すると、意外と上のほうは掃除されずにほこりなどが放置されていることに気づく。梁や壁や、高いところの棚の上や、などである。
 私が中学生になった頃、家ではそれまで使っていた掃除機をついに買い換えた。80年代中盤、世間はバブルに進んでいた時期である。私は新しい掃除機のオプションを全て使いたくてホースの先をいろいろ付け替え、その中に「ハタキターボブラシ」というのがあった。取説には「カーテンや壁、天井などの掃除ができる」と書いてあったので私は壁などを吸ってみていた。私の家はマンションの1階だったが、変なやつが山梨から引っ越してきたといじられていた頃で、クラスの女の子たちが壁の窓から人の家の中をのぞいていた。次の日学校に行くと「掃除機で壁とか天井まで掃除してんじゃねーよ」とからかわれた。私は「いや、新しい掃除機にはそんなオプションがついているんだよ。」と説明したが、なんだかバカにされていた。
 しかし家の壁をよく見るとわかるのだが、冷蔵庫の上とかエアコンの近くとか、上向きの気流が発生する箇所の上のほうの壁には綿埃が薄く壁から生えたように踊っている。上に目線を向ける機会があれば、埃に気づくこともあるはずである。
 昔の日本家屋は、例えば時々窓を全開にして風を通しながらはたきで埃を飛ばし、家の外に出していた。家の中にすすや灰があったのでそれをはたきで浮かせて飛ばしていたわけである。
 最近の生活では、きれい好きになったというものの視線は下に集まりがちで、ややもすると腰くらいの高さの台の上でさえ無視されていることがある。
 技術の発展とともに掃除は単純化され、自動化も試み床掃除はルンバのようなロボットが行うようにもなった。地べたの掃除に単一化される傾向が進み、日常の掃除はおろか年1回の大掃除のときでさえ上に手を出さないことさえ見られるようになった。よく使う某駅のエスカレーターで上を見ると海底の海草よろしくほこりが踊っている。
 いつも上を見るように心がけているといろいろな発見がある。夕暮れ時ならコウモリに気がつくかもしれない。人は上を見ることを少し忘れてしまっている。上を向いて歩くのは泣いているとき以外にもポジティブに実施したいものである。

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2013年5月15日 (水)

「強い国」を求める弱さ

 「国家」というものには実体がない。特に「国家」の権力が強ければ、権力の座に着いたものにより容易に変貌する。つまり「国家」は国ではない。権力者である。
 現在の日本という国家の権力者は国民である。憲法の上で国民は主権者すなわち国で最高の権力を持った存在になっており、見た目は総理大臣が最高権力のようだが国民が間接性民主主義により選んでいるという根本に基づく。つまり国民が間接的に権力を行使している。
 民主党に政権が移ったのはまさに国民の権力により政治の主体を交代させたものであった。小選挙区制という選挙のやり方がほぼイカサマだがまた自民党が政権復帰したのも国民が選挙でその権力を発揮したからである。
 しかし昨今の憲法「改正」論者の話を聞いていると、国民が権力者である状態はよくないらしい。今の憲法と国民主権では「国が強くなれない」らしいのである。
 さて、はじめに戻るが「国家」という実体は存在しない。「国が強い」とはどんなことを言うのか?現在の日本のシステムから説明すれば「国が強い」=国民が強いということである。それで弱いという。中国になめられているとか、北朝鮮に軍事的攻撃を受けるかもしれないとか。国際協力の場で立場が弱いとか。
 これらの「弱い」という評価は、現在の日本においては国民にそのまま帰ってくる。つまり、「弱い弱い」と評価しているあなたが弱い。「今の憲法では、日本は何もできないじゃないか」あなたは何かしましたか?
 憲法を変えて、システムを変えて、それで強くなると思ったら大間違いである。一部の人間に権力を集中させ、軍事力=武器を強化すれば「国」が強くなるのか?それが成功するなら北朝鮮は世界のトップに君臨しているはずである。
 何より、今まさにこの国を主導している権力者たる国民のひとりひとりが、その中の一部の国民が、他人事のように「日本を弱くしたのは誰だ」などと言っている。国は国民の集合体である。細胞があって、それが集まって人体を形成する。細胞は必ずそこに存在し、全ての細胞が人体のどこかを支えている。役割を果たすのはひとつひとつの細胞、ひとりひとりの国民である。文句言って憲法を変える暇があったら、ひとりひとりが問題だと思うそのものを解決する働きをすればいい。それができない立場なら、そのことのほうを変えるべく、自分が国家の責任者のひとりである状態を回復させることに尽力したほうがいい。
 自民党の憲法草案を見ていると、主権は完全に権力者に偏る。つまり、民主主義を捨てている。一部の特別な人と、その人のために消費材となる大多数に分かれる。憲法「改正」を声高に叫ぶ庶民を見かけるが、あなたたちは権力者のほうにはならない。なぜなら、権力者になるのは戦前同様、財閥だからである。だから財界が今の自民党を支援する。かつての自民党には護憲、ハト派と呼ばれる人たちもいた。しかし、今の自民党は急進的な新保守主義者ばかりである。世界ではこういう政党を「極右政党」と呼ぶ。極右政党と財界が手を結び、戦前同様の財閥が支配する国家を作ろうとする、まさに悪だくみである。庶民のプチ右翼のみんなはきっと徴兵制の復活で見事に国家の消費材にされることであろう。それもこれも財閥の楽園を支えるため。それだけのために命を消費するのだろう。
 革命を知らないこの地域の庶民の平和ボケが醒めるのはいつのことか?現在自分が最高権力者のひとりであり、自分の働きがすなわち国家の状態を決めている、表していることに気づけるのであろうか。国が弱いと思ったらすなわち自分が弱いということに気づくのだろうか。せめて選挙に行くという最低限度の権力行使を半分以上の人がサボっている状況がまずいということに本人たちが気づけるだろうか。
 個のチカラの集合が国家のチカラである。ひとりひとりの発言はワガママではない、国家方針の一部である。言っているほうも、言われて不愉快なほうも、その個人の「国の一部」としての責任に気づいているのだろうか。

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2011年5月19日 (木)

密閉性の家と風通しのいい家

 うちも去年、密閉性の高い家になった。
 うちの近くには厚木基地という米海軍と海上自衛隊が使う航空基地がある。今夜もNLPという訓練をやっていたが、艦載の戦闘攻撃機FA-18というのが着陸しつつそのまままた飛び上がるという訓練を繰り返し行う。これは艦上着陸でオーバーランして海の藻屑と消えないように正確な着陸をする練習で、短い艦上滑走路でフックを引っかけてぎゅっと止まるにはその前にギリギリまでスピードを落としておく必要があり、F-14のような可変翼機と違い揚力の少ない機体は直前で逆噴射をしてブレーキをかける。訓練は着地したかしそうなギリギリでまた離陸するためまたスロットル全開である。
 うちは厚木基地に近いのだが、離着陸する飛行機が周りの建物に隠れる位置にあってそんなにうるさくない(と言っても「そんなに」のレベルは生半可ではない)のだが、もう少し基地から離れた前の家は丘の上のマンションで、リビングの窓を斜めに横切るように離着陸する飛行機がよく見える位置で、もろにエンジンの轟音を食らう。国が補助金を出すエリアはこまごまと決まっていて、前の家はうるさいのにギリギリエリアに入っていない。普通の窓ではかなりうるさく、テレビの音や会話は聞こえなくなる。振動に共鳴して窓が震えることもある。
 去年、たまたまエリアが拡大されて、今の家がエリアに入った。国のカネで窓の交換とエアコンの追加設置が行われたが、窓は2重サッシではなく、密閉性の高い窓になった。新幹線の扉のようにギュギュギュっと閉める。家は交通量の多い道路の前でもあるため、トラックの音など結構うるさいのだが、密閉になっただけでずいぶん静かである。

 密閉性の高い家は、エアコンをかけていれば温度を保ちやすいので効率的である。二重窓など断熱性を高めるとなおエアコンは効率的になる。エアコンを使わないと、その時の温度をあまり変えないようになるか、もしくは熱が貯まって温度が上がる。

 今度の夏はエアコンをどのくらい使えるかわからない。節電を気にして使わない人がいるかもしれないし、何らかの停電があるかもしれない。エアコンを使わないと密閉性の高い家は熱くなっていく。窓を開ければ風が通るのならまだ良いが、外の熱風がただ普通に入ってくるだけの環境だったら窓を開ければいいというものではない。密閉性の高い家はグリーンカーテンなど外の環境で熱を下げる努力をしていないことが多い。電気さえ確保できていれば必要ないからである。今のうちから夏の対策を考えておいた方がいい。

 風通しの良い家は基本的に窓を開けて風を通すことになる。窓を開けていて何が不快かというと、なにより騒音は不快である。今度の夏以降、窓を開けて生活する人は増える。騒音対策と排気ガスは高度成長期と同様に再び公害として重要な課題になる。

 うちは交通量の多い道の前である。通る車には物流のトラック、建設など小型中型のトラック、ダンプ、重機、バス、基地関係のトレーラー、大型タンクローリーなど働く車も多い。ディーゼルエンジンの排気ガスや音の大きさは様々で、エンジンやコンプレッサーの音が「こんなに静かになったのか」と驚くものがある一方で、多くは非常にうるさい。特に加速時、低速ギヤ時の高速回転はかなりうるさい。乗用車はほとんどがかなり静かになった一方で、あえて大きな音を出している車の騒音規制もあってないようなものである。おそらく騒音について規制をすると、騒音を低減させる工夫をしていないトラックなどが全てひっかかってしまうため、実質的な騒音対策ができていないのではないのだろうか。

 去年の夏、高齢者の熱中症が少なからず話題になった。高齢になると、温度に対する感覚が鈍って気温の高さに対策を取らず、ようやくまずいと思った時には身体が動かなくなってしまっていたり気を失ったりするものらしい。つまり「暑かったら対策を取れ」と言うのは無意味なことがある。耳が遠くなっているから騒音は関係ない?いや、年を取ってもうるさいものはうるさいと感じるし、排気ガスが気になることにも変わりがない。多くの人にとって、窓を開けて生活するためには窓を閉めたくなるようなものを減らすことが必要なのである。

 被災地での生活改善も考える必要があり、それ以外の地域でも生活に対する影響を考えなくてはならない。被災地や避難者に様々な支出を要することはもちろんだが、電力問題は都市部での問題にも対応する必要性を産んでいる。車の排気ガスや騒音の問題はこの夏に被害を増やすことが予想され、原発はコストが低いどころかそんな遠い波及に対する費用さえ産んでいるということを認識しなくてはならない。

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2011年5月14日 (土)

無効票の意義

 白票を投じたことがあるだろうか。
 先日、選挙の時に「どうしても候補者を選べなかったら白票でもいいから投票に行け」と書いたらバカにした人が何人かいた。無効票など何の役にも立たないと言う。何の役にも?
 とりあえず白票でも構わないから投票に行けと言うのは、まず投票所に行くことが肝心だからである。選挙権という権利を放棄することは自由と民主主義の根幹を揺るがす大事件だと思わなくてはいけない。選挙権が要らないということは、独裁政治にさえ身を委ねると言っているのと同じ事である。行ったことがないのか、行くのに勇気が要るのか、知らないがとにかく行けと言うことでもある。投票率を上げろ、と。
 当たり前だが選挙権の行使は立候補者の誰かに投票することである。繰り返すが誰かに投票するのは当たり前である。しかし、時に投票すべき候補が見つけられない事もある。どんな時か?
 極端なことを言うと、大政翼賛の状況を考えてみる。ハナから立候補者は同じ事を言うやつばかり、誰が当選しても結局同じ会派に入るのはわかっている、という状況。あるいは田舎の市町村長選で、多少利権に差はあるものの政治の本筋が変わらない2人が立候補している時。そんな時でも「どちらか少しでもまともだと思う方を選ぶ」と有識者は言う。それこそ正論だが、斜からの見方をするとちょっと違う。
 「万年野党の常套句」といわれるかもしれないが、落選しても得票数があればそれは「当選者に対する批判票」である。批判票の受け口は真の対立候補や明らかに政治信条の違う候補者、党派があった時に成り立つ。しかし似たり寄ったりが立候補して競争しただけの場合、共通の政治信条に対してはどちらに投票しても「批判した(反対した)」事にはならないのである。そこに批判の意志を示すには何をすればいいのか。
 棄権しても誰にも何もわからない。なにより参政権を捨てていいものではない。投票に行く、そこにいる立候補者に投票したくない、そうしたら残された手段は「立候補していない他の名を書く」とか「白いままで投票する」とか、そんなものしかない。マイナス票を投じられるなら1人に対して明らかな批判を表明できるが、それでもまるで他の候補には同意したかのようでもある。それなら投票したい候補に投票すればよい。
 無効票は有効投票数を下げるため、供託金が帰る可能性が高くなり、下位の立候補者が経済的に有利になるという意見もあった。嫌な目に遭わせたいのならそこも考慮した方がいいのかもしれないが、別に意地悪をしたいわけでもない。それ以上に、立候補者に納得が行っていないことを表明しなくてはならない。では無効票を投じたらどうなるのか。
 選挙結果はTVなどの報道で基本的に上位の候補者の有効得票数しか表示されない。現状では。しかし選管の報告には全てが掲載される。その中には必ず無効票の数も書かれている。もちろん無効票には何と書いてあったのか、白かったのか、抗議なのか単なる間違いなのかそんなことは書いていない。しかし、もし、無効票がとても多かったらそれはおそらく立候補者、当選者の目には入るのである。
 無効票がやたらと多いことを気にしない候補者はおそらくいない。というか見ない、気にならないとしたらそんな人を当選させたことが本当にやばいのだが。白票が多かったとして、さらにそれが世間に知られたとすると、その当選者や他の立候補者は「無効票がたくさん出た選挙の立候補者だった」、当選者は「無効票がたくさんあったけど当選になった」という十字架を背負ってその任期を過ごす、あるいは一生十字架はついてくるかもしれないのである。
 少なくともあまり報道されない現状でさえ、本人は傷つくであろう。いくら何でもよほど間違いやすい要因がなければたくさんの無効票は批判票である。得票数の少ない当選者は決して自慢できるものではない。
 無効票数は報道するべきである。そして、その選挙に対する批判票の数を常に明らかにするべきである。
 もっとも、選挙にはちゃんと様々な主張の人に立候補してもらって、誰かに投票しなくてはならないのだが。

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2011年4月16日 (土)

原発補償とデフレ

 正直、経済の専門家ではないので素人の素朴な感覚ということで。
 福島第1原発の放射性物質漏洩に関して、魚を獲れなかったり野菜や牛乳を捨てなくてはならなかったり、避難しなくてはならなかったり、その補償を東電や国ができるのか(たぶん無理)ということが話題になっている。積算して震災援助と合わせると相当の金額になると。
 原発補償に関しては、原発の存在自体がまずかったというそもそも論もあるが、消費者のところから遡って考えてみた。
 消費者は安いものを選んで買う。最近はその傾向が非常に強く、安いものに群がる、大型スーパーなどの安い品を大量に揃えたセールに集まる。スーパーはセール品に限らず多くの品を安く大量に置いて、なるべく品切れにならないようにする。空腹ゲスト多数の立食パーティよろしく「余らせていいから不足させるな」という品揃えで必ず余剰が出て残飯処理をする。消費者は品切れのない状況を期待している。
 となるとスーパーなどが大量かつ均一でなおかつ安価の品揃えを要求しなくてはならない。卸や産地と交渉して安くて多量の仕入先を決める。
 産地では品揃えと単価契約に不満がありつつ、生活のためには安く買い叩かれても契約のあることが必要。薄利なら多売を目指して大量収穫(漁獲、生産etc.)ができる態勢作りをする。船を大きくしたり、農地を増やしたり、機械を入れたり、大量生産に向けた先行投資を行う。獲れなかったり売れなかったりしたら即座にアウトという態勢が確立される。
 彼らは生産者であるのと同時に消費者である。インフラ整備もそうだが、燃料、電気、ガス、水道などライフラインを大量消費する。大量消費される電気はたくさん作る必要があったから原発のような電気の大量生産が必要であった。そして電気の値段が上がると生産者に即座に影響が生じる。
 大量生産、大量消費の需給構造は少々の失敗や事故が破綻を招く状況を作っている。デフレの原因かどうかは知らないが、少なくともデフレを維持させているのは安売りに群がる消費者と薄利多売で成り立つ大口小売業である。経済評論家が口々に効率化を求め、大量生産大量消費の素地をさらに確かなものへと導く。泳ぎ続けなくては呼吸できなくなる回遊マグロの生命維持と同じで、コケたら大損。それが原発事故で現実となった。
 コケたら大損の業種がかくもたくさんあるのだから、原発事故の補償額が膨大になるのは自然な流れ。電力「不足」は、さらに破綻する生産者を作り出す。
 こうして全体を見ていると、全く余裕を認めない「ギリギリ」を求めた経営効率と安安売買関係の蔓延がデフレを生み破綻しやすい経済を作っている。逆に言えば、生産者が余裕のある経営ができるだけの売買関係の保障と消費者が安易に安物の大量消費をしない社会性の構築が必要となる。
 電気も大量生産大量消費の姿勢は改めなくてはならず、自然エネルギーでどれだけ自給自足に近づけられるか、その不足を火力のようなエネルギーでまかないながら二酸化炭素排出量を減少させられるかを検討していかなくてはならない。
 デフレからの脱却は、政府、財界、生産者、消費者が全て取り組むという姿勢にならなくては現実のものにならない。そのためには、有権者たる市民が経済至上主義により推進された「ギリギリ経済」を認識してやめさせる必要がある。新自由主義者に解決できることは何もない、むしろ悪くすることしかできていないと思うのである。
 こうして考えると、増税で解決できるものなど何もないと思えてくるのである。

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2011年4月10日 (日)

投票に行こう

 世の中案外出来レースっぽいのが多いと思うが、ひっくり返ることもある。

 社会党が躍進した時、青島幸男さんが都知事に当選した時、そういう時は、いつも選挙に行かない人たちが何かひとつのことに興味を持って投票に行った時である。消費税だったり、博覧会だったり。今回は原発なのではなかろうか。その意思表示をしてほしい。ひとり行ったか行かないかで変わるか?と思っていても、変わる時には変わるのだから、いつも行っておいた方がいいと思うのである。

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