2008年3月16日 (日)

威張る客の心理

 常々日本人の社会的成熟度の低さにブツブツ言っているが、昨日も鉄道で暴力をふるって逮捕された人がいたとニュースにあった。乗務員に特急券をちゃんと見せなくて注意されたら逆ギレしたらしい。

 ニュースにはそんなに細かく書いていないから、乗務員の態度がどの程度ふてぶてしい感じだったのか(それとも下手に出ていたのにぶち切れたのか)その辺の流れはわからないが、しかし威張る客の心理には教育の悪さを感じざるを得ない。誰が客は威張っていいとか威張るものだとか教えたのか。接客は客を威張らせて気持ちよくさせるものだなどと誰が教えたのか。

 客に媚びるサービスが、結局客を調子に乗らせて失敗させているではないか。客に媚びて何でも言うことを聞くなどという麻薬のようなサービスに前後不覚になって人とのつきあい方がわからなくなっていく。

 自由には約束事がある。何もかもが全く自由という状況は相対的にあり得ない。それが社会生活の大原則となっている。気持ちのいいサービスもまず基本的に平等な立場で互いを認識し、サービスを提供する側と受ける側のモノと対価を交換する。サービスの内容にはいろいろあるが、互いに争いごとのないように工夫する姿勢でなければ成り立ちようがない。

 道徳とか何とか教育再生会議は言っているようだが、少なくともワタミのサービスの姿勢にその根本が盛り込まれているのかどうかが気になるところである。

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2007年11月13日 (火)

ドラマ文化万歳!か?

 日本の隣の国は……アメリカ?たしかに東の隣はだいたいアメリカだが地球を半周くらいのむこうがわなので「隣人」とは言い難い。近い隣と言えば、やはり朝鮮半島、中国である。

 ヨーロッパの地続きの国々は、互いに侵略しあった過去のせいもあるのだろうが言葉に近いところがあり、そんなに一生懸命勉強しなくてもコミュニケーションをしやすそうに見える(実際の感覚は本人たちにしかわからないが)。
 が、日本と朝鮮半島と中国の三つ巴は言葉の壁がけっこう高い。日本と朝鮮半島は少数派である「述語が最後に来る文法」の言葉である。発音も似ているようで難しい。過去の関係も複雑なせいで互いの言語をこどもが習わないという事情もあるかと思うが、しかしこの隣国の人と英語でコミュニケーションをするのはかなり寂しさを感じる。

 勉強しろ?けっこう難しいので、とりかかりにくい……。

 でも韓国語(と簡単にまとめてしまうが)と日本語は文法が似ているから読み書きと発音を習えばやりやすいのではないか?と分析だけしてちっとも身につけない私をあざ笑うかのように、韓国の人たちは日本語をけっこう身につけていたりする。今日仕事場を訪問したソウル大公園の人もしっかり日本語で会話してくれたし、以前訪問してくれたソウル大公園の獣医師も日本語のメールを送ってくれた。
 出遅れた感じだが、そんな私もなんだかんだで韓流ドラマを見る機会もけっこうあり、冬ソナで韓国の(都市?)文化や風俗を多少知ったところである。よく使う言葉もちょっとドラマを見直せばすぐに思い出す(素では思い出せないのがミソ)。韓国の彼らも、かつて日本が侵略して日本語を押しつけた過去が影響しているところも関係しているだろうと思うと微妙だが、最近になってようやく解禁された日本の歌やドラマや映画から日本語を学んでいることもあろうと想像して、庶民文化で交流できるとコミュニケーションも活性化が早まるのかと実感したりするのである。

 チョジェジンにチェテウク、ユサンチョルにホンミョンボ、チェヨンス、チェソンヨン、チャドゥリ、そしてアンジョンファン。かつてではこんなに韓国人の名前を覚えてなどいなかったと思う(芸能人は省略)。韓国は確実に近くなっている。もっと近い隣国とのコミュニケーションが密になることを願うばかりである。

 中国?もちろん重要だと思っているけど、中国語はさらに難しくて……課題山積。

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2006年10月29日 (日)

その詰め込み姿勢が拙い

 高校で必修科目を履修させていなかった問題が大きく取り上げられている。

 私は高校時代に大きく疑問を持ったことがあった。オザケンなどを輩出している母校は一応進学校ではあるが、部活動やイベントを大事にするところでもあった。しかし、授業はどちらかといえば受験に役立つ事を優先する雰囲気に満ちていた。私は受験のために高校時代を過ごしているのではないはずだと思った。その評価は何に因るかといえば、結局多くのことを記憶したり、受験のテクニックを身につけたりする事だった。
 一時は大学受験も拒否した。息子を大学に入れてその後の人生をいくらかでも充実してラクなものにしたいと考えてきた親は泣いた。私はいろいろ考えた末、それでも大学に行けるものなら行っておいたほうが何かの役に立つとの考えに至ったので結局受験した。しかしやはり「受験勉強」にはあまり身が入らず、浪人していた頃にも受験以外のニュースなどに気を引かれていた。最終的には国家資格を得る学科に入り、免許で好きな仕事をして飯を食っているから、大学は確かに役に立った。
 とこれだけ書いていると、まるで大学が国家資格予備校のようであるが、私の大学生活は調査と研究に満ちており、また議論に満ちていた。考える力をより確かなものにするべく、実に有意義な教育を受けられたと確信しているし、考察力の豊かな人たちとの会話でもそれを実感できる。

 問題は受験勉強である。そもそも受験のために勉強したものが有利というのは本末転倒である。勉強とは、教育とは広く、時に深く知恵を教養と時に技術を身につけることを言うのであって、進学の対策のためにすることではない。しかし、現実の入試は受験テクニックに長けたものがちである。それならば、その手法に対抗すべく教育とはほど遠い「訓練」をするのは定石であろう。結論から見れば、なんと大学がその入試のやり方ゆえ日本の教育を狂わせてきたというわけである。

 私は大学時代(10年前くらいまでおよそ6年間)に主に中学生を塾で教えたが、公立中学でさえ予備校化していた。成績に影響するテストや入試に出る問題の事だけ覚えさせようとする。私は塾で数学や理科を教えていたが、そこで物事の原理や定義を教えざるを得なかった。基本的、総合的な知識がなければ応用性はゼロである。入試問題だけ解けるバカを作り出すことが私には許せなかった。

 人により評価は異なると思うが、数学や物理などの公式を覚えることにどんな利点があるのか私は疑問である。教科書にどれだけの「解き方」が書いてあるのか、試験の問題を解くのに役に立つのか問題により異なるかもしれないが、公式の類など細かく覚えずとも本のどこに書いてあるのかを知っておく程度で充分である。何かを解くのにその公式が必要であるということがわかれば充分であり、それを本の中から手早く見つけ出せればそれでいい。大切なのは解く力なのであって、パターン解析や訓練による慣れではないはずである。

 「学力」低下を教育基本法のせいにするすり替えまで横行しているが、問題は何なのか客観的に観察すれば一目瞭然である。以前中学入試や東大受験をパスした「秀才」がまるで考える力を持たないのに何度も遭遇した。全てではないが、少なからずテクニックと慣れだけでうまくすり抜けている人がいる。「受験」をパスした総人口を見ても、受験本位の教育から脱落した人を見ても、みんな本当の「考える力」を付ける教育を受けていないがゆえに肝心な知力に欠けている。戦後日本の教育の過ちは、これから重視しようとしている業績主義に因って起こってきたのである。業績をさらに重要なものとして、過程の評価を無視する流れでこのまま行けば、日本人は一律に考える力のない人口ばかりが増えて行くであろう。

 今の与党にはそれが希望であるのだろうけれど。

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